なんて言ってますが、最近のわたしはいわゆるアートなセンスなんてないと考えています。
センスというのはその人の生まれ育った環境や人生で培われた感覚の一つだと思っています。
やきものの教育でいつもわたしが伝えているのは、作るよりも大事な技術や知識がたくさんありますよ、ということです。
どれだけ”センス”があって、すごい手びねりの作品を作っても、乾燥や焼成でダメにしたら何の意味もありません。
また、いつの時代のことですかと言いたくなる言い伝えや都市伝説のような情報もよく飛び交っています。
自分で時間とお金を使って、コツコツと積み上げていくことでしか”センス”というものは手に入らないのではないかと思います。
多くの作家が50代から60代にピークを迎えてきたのは、積み上げてきたことと技術や経験がドンピシャでハマる年代だからではないでしょうか。
逆にあまりにも若くで売れてしまった人の悲劇も時に耳にします。
あるスタイルだけを求められ、それ以外のことへ挑戦する時間もゆとりもなくなってしまう。
場合によっては作品が評価されているのか、作家個人が単にキャラとしてもてはやされているのか判断つきかねることもあるのかもしれません。
極端な二人のことに言及しておきましょう。
サルバドールダリは奇行とその風貌で有名ですが、実は技法書を書いたぐらい絵具やオイルにうるさい理論派でした。
また加藤藤九郎さんの仕事場には電気炉や様々な新しい機材があったそうです。そもそも陶器大辞典を編纂したぐらいですから、薪窯一辺倒の陶芸家ではなかったのです。
メディアのほうがまんまとこの二人に騙された(?)のかもしれませんね。
最近は失敗はしたくない、回り道もしたくない、答えをタダで教えてくれ、という人が世代に関わらずチラホラいらっしゃいます。
これは完全にオジサンの説教ですが、実践のないところに理解も進歩もありません。
馬には乗ってみよ人には添うてみよ、窯なら焚いてみよ、ですよ。
わたしにしても某絵具店の店長にしても、実は教えてくださいと言われると、なんでも答えたくなりますし、一番嬉しい言葉だったりもします。しかし、そこに正直さがなければ、お互いの時間の無駄になるだけです。
ここまで自分でやってみたんですが、この間焚いたらこうなったんですが、という質問ならいくらでもお答えします。
自分でやってみるしかないんです。
こちらもやったことしか答えられませんしね。