いろいろなことが明るみになっていく感じがなんとも言えない昨今の国内ニュース。
そもそも忖度したり、空気を読むことが得意な国民性なんでしょうか。
上司の言動や、組織のシステムが間違っているということを、たとえ明確なエビデンスがあったとしても中で働く人間が口にすることは少ないんでしょうか。まぁそういうことばっかりを口にしてきた私はしっかりと自営業になっておりますけれども。
さて。
ガチな方には鼻で笑われるでしょうが、わたしは一般人と比較すればミリオタな方だと思います。
ようは軍事ネタが好き、面白いと思う、カッチョイイ、と感じている人種です。
別に好戦的とかそういうことではなく、そうした究極の環境ではこれまで様々なことが起きてきたし、今も起きていることでしょう。軍事に関わる人達は様々なアイデアをひねり出し、試行錯誤して、失敗したり成功したりしてきた。このインターネットもそのひとつだし。
ちょっぴり不謹慎かもしれませんが、歴史と同様にそれを知ることは、自分のビジネスや人生の糧になると考えています。
例えばゼロ戦。
三菱が造っていたわけですが、名古屋市港区の工場から、空港がある岐阜県の各務原の空港(今も自衛隊がある)まで、1機を牛車2〜3台に分解して、その50キロ近くの道程を24時間かけて運んでいたんです。当然運んだら組み立てます。
ゼロ戦が完成したら牛車に乗せるために分割し、また組み立てる。それは手間です。
トヨタの工場で新しいプリウスが完成したら即分割して牛車で鈴鹿サーキットまで運ぶ、というイメージで突然リアリティが湧いてきます(90キロあった)。
港区から各務原まで。
愛知県に住んでいたのでその距離感はよくわかります。
福岡でいえば太宰府天満宮から糸島半島の幣の浜ぐらい、友人限定でいえばウチから二丈のパーキングぐらいまでの距離。下道で。
それをゆっくりゆっくりと牛車で運んでいた。ず〜っと終戦まで。
なぜ牛車なのかというと未舗装路を移動するときにもっとも振動が少ないから。
なにしろ飛行機は精密機械ですからね。
ちなみに日本に飛行場が隣接した工場はほとんどありませんでした。
ボーイング社の工場はラインの最後が飛行場だったとか。テスト飛行して完成ですね。
まぁ。本の受け売りです。
なぜ飛行場を工場の横に造るか、飛行場の横に工場を移転するかしなかったのか。
せめて、車両運搬で振動による機体の破損を恐れていたのであれば、なぜ道路を整備しなかったのか。
ゼロ戦だから牛車も2〜3台ですが、これが爆撃機ともなれば10台以上になっていたとか。
離合できない通りも多く、三菱のマークの提灯を振って「軍事物資だから優先させてくれ」と頼んで進んでいたそうです。
最終的に日本は負けましたが。
それとは別に、少なくともシステムは改善は出来たのではないでしょうか。
軍人も技術者も優れた人材はたくさんいたでしょう。決してだれも言わなかったわけではないでしょうが、結果論としては改善出来なかった。
日本はほかにも海軍と陸軍で弾丸のサイズの規格が違ったとか。センチとサンチとか。
一つの国の中でですよ。バカバカしい。それで実際に笑えない事例もあったそうです。
現在ではNATO弾として西側諸国は共通の規格になっています。
ほかにもアホらしいことはたくさんあったようですし、逆にすごいこともたくさんあるわけですが、今度はその特殊な成功事例が基準となるような例もあったり。
とりとめがないですが。
ようはシンプルに考えることって難しいです。
目的を失っていくというか。
勝つことよりもメンツとか。
え〜っと。
やきものって焼くから窯がいるんだな、って思える人は貴重な存在だってところへ持っていけそうもないので、久しぶりの生涯学習センターの講座の準備をして早く寝ます。
posted by inoueseiji at 13:03
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イノウエセイジの頭の中