みなさん、折る折る。
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わたしは滅多に上絵や金彩はしませんが、そうした作業や作品は好きです。
先月注文をもらったものの中で、かなり自由にやらせてもらえるものがあったので、シリーズの一つに金彩をすることにしました。
フリーカップのようなもの数個に金彩をして、100Vの電気窯で焼き付けます。
といっても、問題はないのですが、この時に感じた、どうもおかしいという感覚は、一体どこからくるのでしょうか?
記憶の中にある温度と実際に窯の設定温度の違いからくるのか、それとも仕上がりの金の色でそう感じたのでしょうか?
わたしの場合前者のような気がしますが、以前こんなことがありました。
嫁の作品を彼女の勤めていた製陶所の社長さんに見せたところ、少し焼きが甘い、と言われたのです(それは親指大の小さなお雛さまでした)。そのときの窯焚きは人形がほとんどだったので、実は少し横着をしていてSK7よりも少し弱いくらいで火を止めていました。
まさかそれを指摘されるとは思っていませんでしたから、かなり驚きました。何十年も製陶所を経営してこられた方々の眼力には、驚かされることがそれからも多々ありました。どんな世界でもそれで飯を食っている人というのは凄いものです。
それにしても人間の感覚とはなんと鋭敏なのでしょう。
見ただけで、焼きが甘いとか、調合がどうだとかわかるのがすごいと思いませんか。こうした話は、スポーツや職人の世界ではいくらでもでてきそうです。
わたしはいつもこのブログで、理屈っぽいことばかりを書いていますが、そうした左脳的アプローチが目指しているのは、実はこうした右脳的能力の覚醒のためかもしれませんね。
2008年も暮れていきますが、のこり数日も、そして来年も、さらなる知識と技術を求めていきたいと思います。
メリークリスマス。
先日、ビストロを経営している友人と、車での移動の間、長時間話す機会がありました。
彼の料理は、大変美味で、しかも気取らないビストロ、町の洋食屋さんという店構えです。プライベートでも、率先して料理番を引き受けてくれ、イベントやキャンプでのバーベキューなどでも、たくさん美味しい思いをさせてもらいました。
「このソース、おいしいね。」と言えば、「これは赤ワインが1カップに、・・・」とレシピをなんでも教えてくれます。
そのことを先日の車中で話していたのですが、彼もわたしと同じで、そうした情報をオープンにすることに、なんの抵抗もないそうです。教えても、同じようにはできないから、ということでした。
また料理の場合、口で説明できない、1,2秒のタイミングがあるそうで、それはもう、口では説明できない部分だそうです。(似たようなものは陶芸にもありますね)
技術には、そういうことの積み重ねがあるから、なかなか同じものはできない。だから、レシピをオープンにすることになんの抵抗もない、ということでした。
レシピをオープンにしてもらった、わたしの側からみれば、まずオープンにしてもらえることに感謝しますし、レシピから、そこまで手をかけているソースなのか、と驚きますし、(メモをしましたが、複雑なので、まだつくってません)彼の株は上がるばかりです。
同じようなことは、きっとどの世界でもあると思います。また残念ながら、情報を公開しても、意外と人には通じません。教え方や、伝え方に問題もあるでしょうが、実際、情報公開することを、恐れることはありません。
むかし習った書道に例えれば、「どんな硯に水何ccをいれ、どの墨で何回摺り、さらに、どんな筆を使い、どの紙に書くのか」、が秘密の部分でしょう。
しかし、紙に書く文字は、例えば「あ」と決まっています。
「あ」という文字を上手に書く技術は、単純に努力の部分ですし、さらにそこにセンスが加わりますから、相手が自分の「秘密」を知ったとしても、そうそう同じような文字は書けません。
かりに同じように書けても、書けなくても、自分のプラスになります。なぜなら、同じように書ければ、オープンにした人の、情報の質の高さを尊敬しますし、書けなくても、その技術の高さを、改めて高いレベルで理解してもらえるからです。
陶芸の世界の住人は世界が狭いとよく言われます。
わたしもいつも、それについては反省しています。ですから、迷惑もかえりみず、他業種の友人・知人にはぶしつけな質問や話題をふって、我が身の肥しとしています。
先日、まったく同じ日に記事へのコメントと、海外から励ましのメールをいただきました。
発信する側として、こうした反応はとても嬉しいものです。特に、わたしのこのブログでのスタンスでは、そうした反応を得にくいだろう、と予想していましたから、見知らぬ人からのコメントや、励ましは、あたたかく心に染み入るような気がしています。
伝統の世界で作陶する人も、個人で作陶する人も、独学の人も、作る人間というのは、常に新しい自分を探し続けて行かなければいけないと思います。それはテクニックの向上や、作風の変化ということではなく、あたらしい考えかたや、実験などを通して、自分をプッシュアップしていく、ということかもしれません。
陶芸家だからこれこれは知らなくてもいい、ということはないと思いますし、何をするにも心のどこかで自分の仕事につなげていることが必要ではないのか、とわたしは考えています。
「芸術家とはすべてを知る者だ。」と、ある方に言われたことがあります。陶芸家もそうなのかもしれません。多くの人が陶芸に興味をもつのは、間口が非常に広くて、奥行きも深いからでしょう。しかし、その広い陶芸の世界で、発信している人は何人いるのでしょうか。
先日、オークションサイトを閲覧していたら、「窯」を「釜」と延々と書き間違っているページがありました。また、明らかに七宝用の電気炉を、陶芸用だとうたっているものも、多数ありました。
そういう現状に、わたしはほんの少し前まで、通じ合う同業の友人と、酒席で愚痴をこぼしているだけでした。
しかし、それでは何も改善されないことに気付いて、発信することを真剣に考え、ブログで発信するようになりました。そうしなければ、「窯」は「釜」にされて、1000℃ぐらいにしか温度の上がらない七宝用の電気炉を、陶芸窯と認知されてしまいます。
残念ながら、もう発信していない人間を積極的に見つけて、評価してくれる時代ではなくなってしまったと思います。いつか、仕事が認められ、とんでもないスポンサーが現れたりする時代は終わっているのです。
わたしも不安いっぱいですし、家族も、ブログなどお金にならないことをして、と思っているようです。しかしそれでも、もう発信するということを、だれも無視できない時代になっているような気がします。
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