陶芸の書籍には、陶芸家が書いたものと、学者が書いたものしかない、といってもいいでしょう。
陶芸家が書いたものは、どうしてもその個人の守備範囲に偏重しています。科学的な記述も簡略だったり、いい加減だったりすることが多いです。
学者が書いたものは、化学的な記述はただしいものの、読み手に受け取る知識がないと難解なだけです。また、そうした本は本来セラミックの世界に向けて出版されており、陶芸にそのまま流用できるものでもありません。
陶芸家の書いた書籍を読む
おもに入門書に陶芸家が書いた本が多くあります。
陶芸家の書いた本で重要なのは、その作家が飾ることなく自分の体験を書いているか、ということにつきます。それを通じて、それに気付くまで何年もかかるような技法や考えを、知識として得ることができるからです。無理に調べて書き写した、原料や歴史についての記述をしているよりも、素直に自分の苦労話を書いているほうが、読者が得るものはおおきいものです。
注意しなければいけないのは、技法書の場合、その作家の背景を知った上で、紙面の情報を受け取らないといけません。その陶芸家が伝統工芸の出身なのか、教育機関で教わった人間なのかによって意見はかなり違ってくるからです。
土を大事にしろ、とにかく土を大事にしろ、とやららと書いてあるのでよく読んで見ると、わたしは自分で探してきた土を使用しているのだ、陶芸とはまず土を探すところからだ、というような伝統工芸系の作家の文章でした。しかし、これを一般の陶芸愛好家に強要してどうするのだろう、と思ったことがあります。板前に魚釣って来い、というようなもので、一般向けの本を書くべき人ではないのかもしれません。
(もちろん同じことはこのブログにも言えます。)
また、技法についての記述がある場合、それが陶芸一般に正しい場合と、その産地の土や釉薬に関してだけ正しい、という場合があります。たとえば、ロクロの挽き方などは、土の性格によって全く変わってくるし、著者がどのロクロで作陶しているのかというのも記述の違いとなる場合があるようです。絵付けの顔料なども良く擂ったほうがよいものがあったり、流通の段階で細かく擂られていて、あらためて擂る必要がないものなどもありますが、なんでもとにかく擂れ、というような説明をしているものもありました。
なかには、著者が普段やっていないような技法を、本のために無理やり実演していたりすることもあります。ほかにも、窯や焼成に関しては、その人が普段どんな窯で焚いているかで考え方や説明のしかたが全くちがったものになります。また陶芸家のなかには残念ながら、もっともよいのは薪の窯だ、として電気炉やガス炉を軽んずる人や、一般人には設置不可能な、大きな窯でなくては、よいものは焼けない、とういうようなコメントをするような人も結構存在しています。
・・・わたしは一度、昔の勤務先で、ある有名な陶芸家の取材の応対をしたことがあります。技法書を出版する前に、使用している材料について詳しい資料が欲しいということでした。だが、材料についての記述に割ける紙面では、とてもまともな説明はできなかったし、本人も、その材料について意外と知らなかったことに驚いたのを覚えています。勤務先の人が、そんなことを無理に書かないほうがいい、というようなことを言ったと思います。やがて出版された本には余計な記述はありません。ただ、これこれを使用して、何パーセント混ぜなさい、としか書かれていないのです。陶芸家の技法書としてはそれで十分だし、今その本を見ても、バランスの取れたとてもよい本だと思うのです。
学者、専門家の本を読む
工業大学のセラミック科などの出身者で、陶磁器試験場などの勤務から陶芸に関する研究をした人が、陶芸家や陶芸を趣味とする人のために書いた本がかなり出版されています。そういう本は、ページをめくって、三分の一ぐらい内容がわからない、という感じだと思います。しかし、そういう本を手に入れて作陶をつづけ、やがて書いてあることの意味が判りだすときほど面白いことはありません。わたしを含めて、一般人が全て理解できるような内容の本は、かえって噛み砕きすぎだと思います。
こうした専門書はある程度の値段がするものです。しかし写真だらけであまり文章のない入門書も2〜3000円することを考えたら大変お得であると思います。専門家や学校、公立試験場などが、管理された研究室で実験したデータ、多くの人手や年数をかけて調査したりしたこと、これまで発表された論文のなかから、陶芸をする人間の役に立つ部分を抜粋して、学者なりに一般人に読めるようにまとめてあるのです。こうしたことはとても一人の陶芸家でできることではありません。本の情報は値段に比例します。わたし自身、こうした本で得た知識に現在もそうとう助けられています。
数人の例を出すと、大西政太郎や素木洋一の概論、理論の書籍、津坂和秀の釉薬に関するもの、在野の研究家では芳村俊一の土や釉薬の独自の考察、陶芸家だが加藤唐九郎の原色陶器大辞典なども調べ物をするときには役に立ちます。特に大西政太郎の本は、陶磁器制作における化学的な現象を、わかりやすい言葉に置き換えて記述してあり、大変読みやすい。辞典以外は3〜6000円ぐらいで手に入ります。
***************************
上絵の技法書
陶芸家の本になるかもしれないが、浜本玄の「色絵の陶芸」理工学社をあげておきたい。わたしはこの本以外で、上絵付のまともな技法書を知らない。というか、ない。技法書とは名ばかりで、作家の紹介になっている本ばかりである。家業や日々の仕事として上絵に関わる人には、このような本は書けないだろう。著者はもともと教員だったそうである。ゼロから始めた人間の苦労と創意工夫が全編からにじみ出ていて感動すら覚える。この本の中で、実際に絵筆を持つ前の下準備について、かなりのページを割いている。初めての人間が知りたいのはまさにその部分であるが、上絵を職業としている人にはそこに気付かない。また電気炉の自作までして、その全てを記載してある。全編にわたって、本人がやったことしか書いていない。絵具屋さんが見てもおかしな記述はないそうである。
***************************
陶芸を勉強するのに、概論書や理論書を読む必要があるのか、という意見も多いでしょう。
以前あるところで話をした陶磁器問屋の経営者から、「頭が先行していない陶芸家はダメだ」と言うようなことを言われたことがあります。頭でイメージしていることに、作品が追いつかないぐらいでないといけない、ということです。そのためには勉強を怠ってはいけないということです。頭が知っている場所にしか技術は歩いていきません。
また、経験を積み重ねることだけを重視してしまえば、先に始めた人間や、プロにはかなわないということになってしまいます。しかし実際にはそんなことはありあません。わたしが知っているだけでも、キャリア何十年という人で、陶芸教育の初期段階で習うことを、まったく知らなかった人もいます。また、特定の師匠について修行し、そこで覚えこんだ「まちがい」を、自分で確認せずに、いつまでも信じている人もいます。逆に、厳しい生活のなかでひたすら試験焼成を繰り返し、短期間で優れた作品を焼くようになった人もいます。
やきものは理論と制作、センスが複雑にからみあった分野だといえると思います。
そして、陶芸作品は、窯で焼くまで完成しないため、結果を確認するためにはある程度の時間がかかってしまいます。そのため一つのスタイルを追求していても、あっという間に数年が過ぎてしまうこともあります。知識は無駄なトライ・アンド・エラーをなくしてくれます。
また日本人は土と火を使うこの仕事を、神聖な気持ちでとらえているということもあります。初窯のお供えはこれこれをすること、女は窯場に入るな、火を止めるときはこうしろ・・・。そういう部分を否定はしません。大事なことだと思います。わたしも窯焚きのときには御神酒をあげ、仏壇と神棚にお参りします。しかし、そういう感覚が、本来科学的であるはずの技法書や教育現場、陶芸家の思考回路に、無意識のうちに組み込まれていることも事実です。海外の陶芸の書籍などを見ると、当然ながらそういう部分がまったくなく、情報も技法もオープンで気持ちがよいものです。しかし欧米の陶芸家は日本陶芸をそうとう意識しているそうなので、そうした精神も伝えていくといいのかもしれません。
書籍についていろいろと書いてみましたが、わたしは是非、陶芸に関わる人には、こうした本を読んでみてもらいたいと思います。一体どれぐらい陶芸の世界にひろがりがあり、自分はどこでどっちを向いているのかを知るのは悪いことではないものです。
またプロならば、自分と人との考え方の違い、方法を知ることもできます。また、自分だったらどういう本を作るか、と考えて読むのも面白いと思います。よく「誰それはダメだ」とか「陶芸の技法書などろくなものはない」という陶芸家がいます。そう思うならば、なにが正しいか改めて啓蒙するのも陶芸家のしごとではないでしょうか。
残念ながら亡くなられましたが、十数年前にお会いした芳村俊一氏の言葉を最後に書いておきます。
「よいやきものは人間の頭の中にある」
http://inoueseiji.com/ ↓ ランキングに参加しています。面白かったらクリックしてください。
posted by inoueseiji at 20:28
|
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
イノウエセイジの頭の中