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技術を言葉に置き換えることの難しさ。
たしかに菊練りを写真と文章だけで教えることは難しいと思います。
しかし、不可能でしょうか。そもそも、菊練りをしないといけないのでしょうか。
YOUTUBEなどで、海外の陶芸関連の動画を見ていると、日本の常識のようなものを簡単に打ち砕かれるような動画が、たまにあります。
それと同じように、菊練りをしないで、空気の抜けた作りやすい土はできないのでしょうか。そういう風に考えた時、あたらしい視点が生まれるのではないかと思っています。
ここまで書いておきながら、ですが、わたしはやっぱり菊練りがいるな、と思っています。くだらない実験をしたり、本筋をはずれたコツみたいなものを試した上での結論です。
逆にわたしの嫁は、手びねりで小さな陶人形しかつくりませんから、ほとんどしません。
ところで、一体どうすれば技術を言葉で伝えることができるのか。
以前、たしかNHKの番組で観たことですが、熟練工の手の動きを3Dで解析して記録する、という取り組みの紹介をしていました。たしか数年前です。言葉ではなくて、3Dのコンピューターアニメーションでした。
これまでのメディアなどを見て、足りないなと思う部分を思いつくままに書いてみても、
菊練りの動きを何分割の写真にするのか。
撮影方向はいくつ。
右手の動きだけ、の記録はどうなるのか。
左手の動きだけ、の記録はどうなるのか。
練るときの台の高さは何を基準にすればいいのか。
絶対条件はなにか。
一般的に陥りやすい失敗とその対策。
特に最後のよくある失敗など、取材すれば実例がいくらでも撮影できるのではないでしょうか。
ここまで書いていて、以前築炉メーカーにいたときに、社長の友人のある作家さんの本をいただいたことを思い出し、探し出してページをめくってみました。すると・・・
なるほど、うまい。
しかし、その後の本文では、土練りの回数についてや、状況に応じた固さなどが、数ページにわたって書いてありました。こうした記述はなかなか他の書籍ではありません。
この本は、非常にわかりやすく、参考になった本ではありますが、初心者向けの本ではありませんから、このような書き方になったのでしょう。
また、陶芸教室で、隣り合って受講生に教える場合でも、イメージを明確に伝えなければ、菊練りを教えることは大変だろうと思います。力の加減を、なにかに例えて伝えられるか。その世代にわかりやすい例えができるか。
作陶するのとは、まったく違う技術と才能がいる世界だと思います。しかも、作陶する技術を持った上で、ということですから。
以前、なにかに書きましたが、わたしはもともと、陶芸教室で教えるつもりはなかったのですが、誰かに技術と知識を伝える、という努力をすることで、自分の技術を見直し、その向上に非常に役に立っています。
友人が、また全く別のジャンルで講師をしているのですが、優れた講師になるには、自分が実践し、人に教え、自分も誰かの生徒であること、と言っていました。
自分も誰かの生徒であること、これは非常に重要なことで、教えるだけの人間はどうしても独りよがりになりがちです。あらたに誰かの生徒になると、見えてくることがたくさんあります。
技術を言葉やイメージに置き換えることが、これから大事になってくるのかもしれません。
このテーマはまた書けそうですね。
陶芸をする人間が避けて通れないのが、土練りです。
最近、生涯学習センターの陶芸講座に、新規の受講生が数人入ってきて、土練りを教えています。荒練り、菊練りを順序よく教えていかなければいけません。手首を痛めたりしないように気をつけたり、変なクセがつかないように目を光らせています。
数年前から人に教えるようになって、いろいろな陶芸の技法書を見るようになりました。多分、図書館のものは全て目を通したと思います。技法書以外にも雑誌が数誌ありますし、陶芸に関する本は一昔前に比べると、本当にたくさん出版されています。
しかし、土練りにについて、「この本をみれば、誰でもできるようになる。」などという本はありません。その代わり、土練りがいかに大切か、ということを説いている本はたくさんあります。
雑誌や初歩の技法書などは、なんとか分解写真と解説文で説明しようとしているのですが、あまり当てになりません。つたえようという努力は感じますが、技術を言葉に落とせていない感じがします。
技術を、言葉で相手にわかるように説明する。
これは、本当に難しい。
そもそも、できる人は言葉で説明できないものです。
自転車競技を趣味でしていますが、技を説明するときに、「ビュッときて、ガッという感じ。」みたいな説明をする人のほうが圧倒的に多いです。しかし、上級者のなかにはやはり、「ここにフロントタイアの軸がきた時に・・・・」などと、理路整然と説明する人がいます。
土練りです。
これは、そんなにカッコイイ技術でもありませんし、どちらかというと弟子でもできたらやらせたい部類の仕事になります。これをいかに説明するか・・・・。
う〜ん。
つづく、にします。
以前、わたしの生涯学習の教室に2年間通われて、曜日の都合から違う教室に移られた方が訪ねてくれました。こうした「卒業生」がまた講座に顔をだしてくれるのは、本当に嬉しく、講師冥利につきるものです。
しかし、そうして訪ねてくれるのは、その教室で答えが見つからない相談があるときがほとんどです。その方、仮にMさんとします、の相談は、大物を素焼きするとキレが出てしまう、というものでした。
Mさんは、わたしの講座にいるときも、課題を無視して大物をつくるような方でしたが、技術もそこそこあり、そうしたトラブルがわたしの講座で起こったことはなかったと思います。
実は、話を聞いているうちにわかったのですが、そのキレの原因は、窯詰めの仕方でした。ですが、わざわざこのブログに書こうと思ったのは、そのときの講師の方の応対が余りにひどいと思ったからです。その教室の講師は職人としてはプロのようです。(これ以上は書きません)
Mさんが、何度やってもキレが出てしまうのですが、とその先生に相談したところ、どれぐらい乾燥させましたか、と聞かれたそうです。週に一度通っているわけですから、最短でも窯に入るまで1週間あります。Mさんは「1,2週間です。」と答えたところ、「それは短い。尺皿なら最低一月ぐらい乾かさないと。」と言われたそうです。
それを聞いて唖然としました。仕事でつくっている人なら様子を見ながら室でゆっくり乾かしていくのもいいでしょう。それでも、よほど大きくて、複雑な形状のものの話です。趣味で一生懸命に作陶されている人に、そういうことを強要する神経がおかしいと思います。
これまで、わたしの講座で、一度もキレを出したことがない人が、教室が変わったとたんにキレが出るようになった。それに対しての答えになっていません。ロクロで挽いた尺皿を一ヶ月も乾かすなんて聞いたこともありません。素焼きするまでに結果として、1ヶ月かかったというのならわかりますが。
そこで、今回はそれに対抗する、ある乾燥方法を紹介したいと思います。
これは乾燥機などを使用する方法を簡単に再現する方法で、理論は訓練校や各学校で教えていますが、実践方法は「焼き物実践ガイド」(樋口わかな著)からのものです。この本についてもいつか紹介したいと思います。
まず、理論ですが、3段階あります。
1 温度を55℃まで少しずつ上げる一方で、
送風を抑え湿度を85%に保つ
作品中の水分流度を上げることになります
2 温度を55℃に保ったままで、通風をよくして
湿度を60〜70%に下げる
内部から表面への水分移動をスムーズにします
3 高温低湿で完全乾燥させるため、温度を80〜90℃に上げ、
湿度は10〜15%にまで下げる
理論的にはそうですが、これを完璧に実践することは小さな工場でさえ難しいでしょう。樋口わかな氏の本では、これを簡単に実践するためにビニール袋を使うとしています。
やり方は次の通り。
A 直射日光の当たるところに作品を出します。
わたしはテストのために、つくりたてのモノを出してみました。
B そして、大きく空気を含ませて、ビニール袋をかぶせ、
作品をのせた亀板の下にビニールの口を巻き込んで、
風が中に入らないようにします。
ビニールが作品にあたらないようにすること。
C 袋の内側に水滴がついて流れそうになったら、
ビニールをはずし、水滴を振り落とします。
そしてまたビニールをかけて、A〜Cを繰り返します。
日向に出してビニールでつつむ、というAが1の工程、そして、ビニールをはずして水気をきるB、Cが、先述の2,3工程になります。
試してみましたが、このビニールを取るというのが面倒です。丁寧にとっても、つい中の水滴が作品についたりしてしまいます。また、幾つかの作品がある場合、何度もビニールを取ったりかけたりしなくてはなりません。
そこで、廃材を利用して骨組みを作り、粘土がはいっていたビニールを切って貼り付けて箱をつくりました。これだとかけたり、取ったりも簡単です。1時間もかからずできました。
正直、写真の作品は壊れてもいい、という覚悟でテストしましたが、土瓶状の厚さや突起など複雑な形のものでも、非常に均一に乾燥しました。これから積極的にこの方法を使ってみようと思います。
写真の作品は、昨日つくってビニールにいれ、初期乾燥は完全にできてしまいました。今日から何もかけずに外に干しています。
お恥ずかしい話ですが、以前この土で同じものをつくって、乾燥でほとんどキレてしまっていました。そのため、効果はまちがいないと断言できると思います。
調子に乗って、非常に大きな作品を新聞でくるんでから、ビニールで包み、外に出して一日日光に当ててみました。これもいまのところ上手くいっています。
さらに焼成は以前の記事を参考にしていただければ、より失敗がすくなくなるのではないでしょうか。
5月14日の記事 素焼きが怖い
こういうことに行き着くことが、師をもたない人間の特権なのか、哀しさなのか。
なんだか読み返して複雑な心境になってしまいました。
わたしは、その教室の先生のように、1ヶ月かけて乾燥させるのが悪いということではありません。ただ、人に陶芸を教えるということでお金をもらっている以上、困っている生徒を放り出してはいけないと思うだけです。
個展もいよいよ最終日です。
2年目のジンクスに負けずに、なんとかそこそこの売り上げを出しています(多分)。
今回、「注ぐ器」というテーマに沿って、急須などが多いのですが、テーマ展示のメインのテーブルには煎茶碗3杯分の水をコップで用意して、注ぎごごちを試してもらっています。きびしい嫁の検査をパスした急須たちしか展示されていませんので、全てキレはよいのですが、人によって、器の扱い方、手の動く早さが違い、感想はまちまちです。
わたしの友人や先輩も、あまり急須をつくっていないようですし、陶芸家全体的に急須を手がける人が少ない理由もなんとなく理解できました。
こちら側がキレのよい、軽い急須をつくっても、人それぞれ手の大きさや筋力がちがうため、取手の長さ、大きさ、太さで評価を決められてしまいます。また、それも含めて及第点をとっても、容量が家族構成に合わない、といわれることもあり、ほかの器と全く勝手が違います。
とあるお客さんが言ってましたが、急須はもらって一番困る器なんだとか。なるほど、と思いましたが、お花をくれた叔父、叔母には売れ残りを送りつけようと思っています。
さて、急須といえば口切れです。
注いだ後にタラリとたれるのはいやですよね。そこで、わたしなりにキレの良い急須の見分け方を書いてみます。
もっとも重要なのは、口の角度、先端の形状、注器そのものの素材です。
口の角度はなるべく30度以下にします。そうでない場合は口の先端部分だけでもそうなるように工夫すること。
口は薄いに越したことはありません。金属器だと、ほとんどキレを気にしなくていいようですが、陶器は厚みがありますから、なるべく薄く。しかし、あまり薄いと脆くなるので妥協点を自分なりに探すしかないようです。
また注ぎ口の穴も大きすぎず、小さすぎず。感覚ですが、タバコよりは細いぐらいでしょうか。口先はそのままよりも、わずかに斜めに切ったほうがキレが良くなります。しかし、斜めすぎると、最後傾けきった時に液体が暴れます。
同じ形状ならば、釉薬をかけない焼き締めの急須のほうがキレはよいようです。
ヒントになるかどうかわかりませんが、こんなことを意識して幾つかつくってみると、自分なりに理解できると思います。
会場でも聞かれたら答えています(もっと具体的に)。
そこまで話した人が買わずに帰ると、嫁が教えるだけ教えてもったいない、と言います。しかし、これも人が書いたり、実験した情報を公開したから、わたしの知識になったのです。それをわたしで止めることは、間違いだと考えています。
たくさんの人が良い急須を見分けられるようになれば、またつくれるようになれば、人々の生活や陶磁器業界も少しだけ変わるんじゃないでしょうか。
陶磁器の技法や調合は、おそらく藩窯であったころの名残で、秘伝として口外してはいけないという認識が強いようです。なかにはたいした秘密ではないこともたくさんあります(二回焼くとか)。わたしはこうした体質が日本の陶磁器業界を衰退させてきたのではないかとおもいます。
技術や情報を公開しても、窯と土と手が違えば、容易には再現できません。作り手として、こそこそ隠し事をしたくもありません。たくさんの情報を公開することで、全体の底上げにつながると思います。現に、そうした集団が日本各地にいくつかあるようです。
わたしは一時期自分が損をしてもいいから、情報は公開すべきだと思います。結局最後に得をするのは、公開した側になるということを、もうすでに体験しているからです。
公開する側はまた、その情報に責任があります。そのため、自分も勉強するようになります。これも一つの効果だと思います。
では、個展最終日、がんばってきます。
このところ電動ロクロを使用せずに、手びねりでつくっています。
わたしの作陶上の性格は生真面目で、作品に硬さがあると指摘されることが多く、いままでそのことで悩んだりしていました。粘土で作ったものに、硬さや柔らかさがあるのか、という方もいらっしゃるでしょうが、硬い器とやわらかい器を並べれば、誰にでも一目瞭然です。それは形がゆがんでいるとか、ゆがんでいない、ということではなくて、もう作者の性格に起因しているものです。ですから、まあどうしようもないとも言えますね(笑)。
しかし、硬いからだめということもなく、同じようにやわらかいのが全ていいというわけでもありません。
前にも書いたかと思いますが、わたしは訓練校を卒業してから、窯を造る仕事を先に選びました。同期が製陶所などで仕事をしていたときに、土に触ることなく溶接やレンガ積みの手元などをしていたため、作陶技術は未熟なものです。
そういう人間が電動ロクロをするとまあ、硬い硬い。このところ随分ましになってきてますが、最近は無理にやわらかさを出そうとは思わないようになりました。
窯屋の時代、一日仕事して、帰宅後にロクロを回すというのは、やはり無理がありました。かならずどちらかが犠牲になりました。また当初は自分のロクロもまだ手に入れていませんでしたし、住宅事情もあり、断念して釉薬の勉強と調合を先にはじめたのです。そして作陶をあきらめたのかというと、やはりあきらめきれないのです。
そんなときに、手びねりの作品を発表している作家が意外といることに気付きました。ある作家さんは雑誌の別冊というかたちで技法書も出していました。さっそくその本を買ってみました。そこにあった「手びねりはどこでもできる」という言葉に釘付けになってしまいました。わたしはそれまで、自分が作陶できない理由を、住居環境や、仕事、家族のせいにしていたのです。情けないことです。
早速、ベランダに放り出していた粘土を練り直し、台所で玉つくり、手びねりをはじめました。まず粘土のお団子をつくり、指で穴を開けて、手でつまみながら薄くのばし、器をつくります。ところが、そんなシンプルな技法なので、なかなか使える器というのができないんです。当時のものは福岡へ引越す時に処分してしまい、今では埋立地に埋まっていると思いますが、手びねりで散々つくりました。
指と手、粘土。それだけなんです。道具もほとんど使用しない。わたしは電動ロクロよりも、かなり先に手回しロクロを持っていましたが、それも使いません。あえて何も道具は使用しないと決めて取り組んでいました。楽しかったですね。作ったものは会社の窯で焼きました。そうやって窯を造る仕事とは別に、焚き方もおぼえていきました。
やがて引越して、専用の部屋をアトリエとして整え、そこで電動ロクロも使用できるようになりましたが、よく手びねり、特に玉つくりをしていました。もちろん今でもてびねりをするのは好きです。電動ロクロよりも時間も労力もかかりますが、その土にむかっている時間が大切だと思うのです。今度の個展に、初めて手びねりの器を出そうとおもっています。台所で最初のぐいのみを作ってから7,8年がたちますが、どれぐらい進歩したのか・・・。
さきほど、これを書く前に「ひねる」という言葉を調べてみました。こうして言葉の意味を調べて見ると、「手びねり」とはうまい言葉を当てたものだなぁ、と少し感心してしまいました。
ひね・る 【▼捻る/▼拈る/▼撚る】
(1)指先でつまんで回転させる。軽くねじる。
(2)体の一部をねじって回す。ねじって向きを変える。
(3)首を締めて殺す。
(4)手間どらずに簡単に相手をやっつける。
(5)深く考える。
(ア)考え出す。
(イ)(「頭をひねる」の形で)良い考えを生み出そうと、一生懸命考える。知恵をしぼる。
(ウ)(「首をひねる」の形で)問題が解決できずにあれこれ思案する。また、提出されたものが受け入れがたくて、どう処置したものかと思案する。首をかしげる。
(6)あれこれ考えて普通とは違う物にする。趣向をこらす。
(7)あれこれ考えて俳句などを作る。
(8)つねる。
(9)小銭を紙に包む。おひねりを作る。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
8月に個展をします。
わたしの仕事のペースで考えると、あまり時間がありません。去年は4月の今頃には個展を意識した窯を焚いていますから、かなり遅れてはいます。
しかし、これまでの経験から、焦ってもいいものを生み出すことはできない、とわかっているので、今このブログを書きながら陣痛に耐えているところです。
わたしは、やきものの街、愛知県の瀬戸でやきものの基礎を学びましたが、その後は、あえて窯造りの仕事を6年ほどしました。そのことは今でも大変いい選択だったと思っています。しかし、作陶技術だけをいえば、その期間を製陶所で過ごしたり、自分で作品を作り続けた人に比べると、劣っている部分が多いのは仕方のないことです。
以前はそのギャップをどうにか埋めようと、焦っていましたが、去年の個展のあとから、どうもそういう技術は自分に必要ないのではないか、とも思うようになってきたのです。自分には、というか個人作家には必要ないといえるかもしれません。
数年前に、友人から「一つ一つ微妙に違うのがいいよね。」と言われたことがあります。わたしは同じサイズに仕上げるために努力をしていたので、そういわれたときに大変ショックでした。
しかし、そのころより技術が進んだ今となっては、あれは案外、陶芸家にとっては褒め言葉だったのかな、と思っています。考えてみれば、あなたは揃い物が欲しいときに手作りのものを買うでしょうか?機械と型で作られたものを買うのではないでしょうか(つまりデパートなどで売られている器などです)。
陶芸家の仕事とはなんでしょうか。
器をつくるだけならば、今更そういう人種が出てくる余地はありません。窯の仕事をしているころ、何十年も、毎日毎日湯飲みだけを作り続けている会社や、箸置きだけをつくっている工場など、量産の現場をたくさん見てきました。そして、そういう工場は日本中にたくさんあります。今ではアジア各国から輸入もされています。
いまさら、新たに誰かが器をつくることが必要でしょうか?
実はスランプになって、延々とこういう考えに陥ってしまったことがあります。もちろん今は、この仕事に自信を持って取り組んでいますから大丈夫ですが、はまった時には、なかなか抜け出せませんでした。この答えは、結局お客さんとの出会いの中ででてきたのですが、意地悪してここには書きません。でもヒントを書いておきます。
たとえば、お茶を飲むだけなら、紙コップでいいと思いませんか。洗い物の時間とコストを考えたら、すべてこういうものを使ったほうが意外とお徳ではないでしょうか。少し極論すぎましたが、どうですか。こういう部分を突き詰めていくと見えてくるものがある気がしませんか。
人間は自分の感性に、なんらかの栄養を与え続けなければ生きていけません。そんなことはない、などという人がいたら会って・・・会いたくありませんね。その栄養分の中の一つに、自分の器や作品があればわたしの仕事は成功なのです。